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Author:青木勇気
小説を出していたり絵本も書きたかったりします。物書きと呼ぶにはおこがましいくらいのものですが、物語を書いて生きていけたら幸せだなと思っています。

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なぜ、「匿名のコメント欄」はアンフェアなのか

2012.05.02 19:29|雑記
そういうものなのだろうし、どうしようもないことかもしれないが、それでもやはり納得がいかないので書きたいと思う。テーマは、ネットにおける匿名のコメント欄についてである。

ポイントは、アンフェアなのにもかかわらず、自由や公正という言葉でその存在意義が語られること。本稿では、特定の記事に対して「意見」として匿名で好き勝手にコメントできることがいかにアンフェアであるかを論じたい。

まず、匿名性のメリット、必要性について「プライバシーを守るため」「匿名だからこそ言えることがある」などと言われるが、これこそが疑わしい。むしろ、実名だからこそ言えないことがあってしかりなのであり、守られるべきなのはプライバシーを晒している人だからだ。しかし実際は、著名人や政治家、学者、ブロガーなどの発信者への誹謗中傷の類いは公然と、ごく気軽に行われている。まるで、「実名で何かを発信するということは叩かれることなんだ。叩かれるのはレベルが低い証拠」と言わんばかりに。

そもそも、記事やブログのコメント欄でプライバシーを守り、匿名だからこそ言える何かを担保する必要があるのだろうか。言論の自由だとか、コメント欄があることでインタラクティブになり議論の公正さが保たれるといったことは、匿名であることの理由にはならない。匿名の人間による情報発信は信頼性が低い、だから発信者(書き手)は実名の方が良い。実名でわざといい加減なものを書いて、自らの評価を落とすことはしないだろうから。それに、実名だとその人がどんな仕事をしているか、どんな価値観で書いているのかなどが見えやすく、それが安心感や信頼につながる。この話はわかる。

しかし、一方で匿名の人間によるコメントはどう捉えられているか。信頼性がなく、聞く耳を持つ必要はないものだとすると、意見としては成立しなくなり、コメント欄の存在意義はなくなるわけだが、それでも匿名性によって「自由」や「公正」が保たれている。では、なぜこのような匿名性が守られているのだろうか。それは、「都合が良いから」である。つまり、ここでプライバシーと呼ばれるものはあくまで「隠れ蓑」であり、倫理や道徳、自由などとは関係なく、匿名性が守られることによって「コメントしやすくなる」というだけの話だ。

サイト側と書き手の間には需要と供給がある。原稿料という金銭的なメリットがなくとも、書き手には元々モチベーションや問題意識があるし、サイトコンセプトや他の論客に共感でき、一定数の読者を集めてもらえるのならそれで構わない。サイト側は、無料でコンテンツを手に入れられるわけだから、願ったり叶ったりである。この仕組みが成り立てば、読者を集めて広告収入を期待するサイト側と記事を読みたいユーザーの需要と供給も成立する。しかし、果たして読み手と書き手の間には需要と供給が成立しているのだろうか。

ここに、アンフェアな一面がある。あるユーザーが、コメント欄に匿名で誹謗中傷や人格否定としか言いようのないコメントを書くとき、書き手は確実に割を食うことになる。レッテルを貼られたり、まことしやかにデマを流されたりすれば、「匿名のおかしな人たちが言ってることだから」という人がほとんどでも、多少なりとも実害を被るリスクがある。

書き手は、個人情報を晒した上で私はこう思うという姿勢で書いているが、読者には隠れ蓑が用意されている。明らかに、需要と供給が成立していない。いや、成立しないどころか、無料かつ無報酬で提供されるコンテンツに対し、もっと質の高いもの、面白いものをよこせと過剰に要求するなど、誠意や敬意に欠けた発言が後を絶たない。

これがどういう状況なのか考えてほしい。たとえば、ある人が被災地での瓦礫処理のボランティアに参加した際、通りがかった人から「お前、なんだその運び方は?なめてんのか。まともに瓦礫持ち上げることもできないならならやめちまえよ」「どうせ金もらってPR活動してるんだろ?」などと言われたら、どう思うだろうか。

確かに、個人が勝手にやっていることかもしれない。ただ、だからといって、何かできることはないかと懸命に取り組む人に対し、そのような言葉を浴びせていいわけではない。むしろ、不適切な発言だと良識を問われることになるのは自明だ。その意味では、面と向かって言える人はまずいないと言える。

同様に、社会人として仕事をしていて、同僚やお客さんに馬鹿だとかクズだとか罵声を浴びせて平気な顔をしている人がいないのは、そんなことをしたら相手を傷つけたり、怒られたり、売り上げに響いたり、社内外での自分の評価に関わるからである。つまり、そこに利害関係があることを十分に理解しているため、そんなことはしないし、できない。

しかし、ネット上では匿名の人物としてそれが「できる」。匿名を選択することで、何の仕事をしているか、どんな人物なのかという観点で、仕事ぶりや人となりを「評価される側」に回るのを避け、一方的に「評価する側」に回ることができるのだ。

皮肉なことに、書き手の意図を邪推して「お前は機会主義者だ」とレッテルを貼る人こそ、利害関係に関して非常に敏感で、明確に損得の計算ができる「機会主義者」なのである。そして、それが故に匿名であることを選択する。匿名のアカウントの場合、コメント欄で書いた内容に対し書き手や他の読者の反撃、批判にあったとしても、交換可能なネット上での記号の存在が脅かされるだけだから、実質的な損失がない。

つまり、「匿名のコメント欄」はインタラクティブな意見交換の場であると同時に、一方的に悪口を書き込める「都合の良いもの」として機能する。これは疑いようのない事実なのである。

参加するのも撤退するのも気楽なのが、匿名の魅力ではある。ただ、何を言っても許される構造になっている限りにおいて、匿名のコメント欄は徹底してアンフェアな存在だ。その存在意義に、自由や公正さを持ち出す余地はない。

※言論プラットフォーム「アゴラ」に掲載された記事を転載しています
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