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Author:青木勇気
小説を出していたり絵本も書きたかったりします。物書きと呼ぶにはおこがましいくらいのものですが、物語を書いて生きていけたら幸せだなと思っています。

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人間はかなり複雑に、かつ単純にできている

2012.04.11 01:17|雑記
「『自分の子どもが殺されても 同じことが言えるのか』と 書いた人に訊きたい」という記事を読んだ。これは、森達也氏による死刑制度をテーマにした勝間和代氏との対談の述懐であるが、本稿では死刑制度の是非を問うのではなく、「光市母子殺害事件」を例に挙げ「当事者」をどう捉えるべきかについて論じたい。

森氏はまず、「死刑廃止論」に対する批判的なコメントを引用している。単に勝間氏に文句を言いたいだけの人もいるだろうし、死刑制度存置を支持する人々が皆批判的にコメントするわけではないため、大多数の意見であるとは言えないだろうが、それらのほとんどは「被害者遺族の身になれ」というものだという。こういった反論が起こること自体は容易に想像がつくし、普遍性を帯びて語り尽くされてきた言葉でもある。

ただ、これは佐々木俊尚氏が言うところの「マイノリティ憑依」の好例で、遺族側の視点で語っているように見えて、結局は第三者目線に過ぎない。遺族が復讐を望んでいることを前提として死刑の必要性が語られるとき、犯人は憎しみの対象であり、残された者はそれを行使する権利を持たなければならないという「決まりごと」が生まれ、だから死刑制度はなくてはならないというロジックが構築される。

論理的には間違っていない。このロジックに全面的に賛成する遺族もいるだろうし、多数派の意見かもしれない。ただ、そこには二重の誤謬がある。まず、主語が「当事者」ではなく第三者であること。そして、死刑が被害者と遺族側のためにある、そうであるに違いないと思い込んでいること。どちらも、当事者の視点や立場に憑依することで生まれるものだ。死刑制度が絶対的に必要なのだとしても、この文脈から導き出されるのだとしたら、それは非常にあやふやなものだと言わざるを得ない。

さらに言えば、「身内が殺される」という体験をした当事者を集めたとしても、それらは「同じもの」として共有されるとは限らない。記号化すれば同じ体験であっても、それらは決して同じ体験ではない。つまりは、どこまでいっても当事者と第三者は交わらないということだ。

そこに普遍性はなく、結局は本人にしかわからない。わかるなどと軽々しく言うべきではない。それ以上でもそれ以下でもないのだから、考えても仕方がないのである。以上。

—— いや、そうではない。もちろん、「当事者にしかわからない」のだが、そこで終わらせてはいけない。むしろ、そのような硬直化したパラダイムから脱却することではじめて、もうひとつの視点を持ち得るのではないだろうか。つまり、「当事者にもわからないのではないか」という視点である。

どういうことか。これは、光市母子殺害事件の犯人に死刑判決が下された後会見に臨んだ本村洋氏の言葉に耳を傾ければ分かる。

(「13年間、どうして公の場で強くいられることができたのか?」という質問に対して)

「私はそんなに強い人間ではない。本当に強い人は、自分の弱さを明るみに出せる。私は弱い人間だから、堅苦しく話してしまう。決して強い人間ではないし、聖人君子ではない。話しながらも悩み、どきどきしながら発言している」



この言葉は、人間は常に揺れ動く存在であり、自分をこういう人間だと簡単に説明できないことを教えてくれる。事件当初と13年経った今ではかなり変わった部分はあるとは思うが、だからといって「当事者」としての立ち位置、感情、その他諸々が整理され、「私」という唯一無二の存在を自覚し、当事者とそれ以外という構造の中で話しているとは限らない。「そう見える」だけの話だ。「当事者にしかわからない」ことが多いのは事実だが、「当事者にもわからない」こともあってしかりなのである。

また、本村氏は2009年に再婚したことについても語ったが、これに対しTwitterで「心から妻と子を愛しているなら再婚などするはずがない」という文脈で痛烈に批判する人がいた。そして、その人はすぐに「凄惨な事件に巻き込まれた経験もないのに、よくそんなことが言えたもんだ」「真実の愛か否かなどお前にわかるのか」といった非難を浴びる側に回った。しかし、それでも怯むことなく持論を展開し続ける。そこには、人の心を慮るべきであるという倫理的な反論さえ無力にする致命的な何が横たわっているように見えた。

ただ、一方でこの人はある可能性を見落としているのではないかと思い当たる。つまり、「真実の愛であればそんなことはあり得ない。矛盾している」と言うのは、人間が矛盾した要素を同時に持ち得る可能性自体を否定しているからではないかということだ。

確かに、再婚が正しいかどうかはわからない。本村氏自身も葛藤があったことを認めている。しかし、だからといって「すべきでないこと」にはならない。 弱さ故に、ただ必要だと感じたから、その理由が何であれ、失った妻と娘を心から愛しつつ再婚することは「できる」。本人にも何故そんなことができるのかわからないけれども、とにかく成立している。そう考えることが肝要なのではないだろうか。

「被害者遺族の身になれ」という議論は、たとえ倫理・道徳的な観点で語られたとしても、第三者による代弁の応酬であり、どこまでいっても当事者にはなれないという壁にぶつかる。白か黒かの議論では、理解の地平は見えてこない。だからこそ、白であり黒であるという二律背反性を出発点として、「当事者にしかわからないこと」と「当事者にもわからないこと」を別々に、もしくは同時に語る必要があるのだ。

そして、それができれば、当事者を理解することはできなくとも、森氏が求めるような「救済と補償の整備」として、当事者が求めるものを提供できるはずだ。筆者は、「当事者」をそう捉えるべきだと考える。

「当事者」は、弱くもあり強くもある。正しくもあり間違ってもいる。憎しみを抱きつつ赦してもいる。これらは決して矛盾しない。ただ、それでも死刑は執行される。人間はかなり複雑に、かつ単純にできているのだ。

※言論プラットフォーム「アゴラ」に掲載された記事を転載しています
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コメント:

No title

「代弁の応酬」が起こるのは、その多くの人々は実は、「どこまでいっても当事者にはなれないという」というおぞましさを無意識的に感知しているからなのかもしれない……とふと思った。『311』の件でも多くそのような空疎な言葉の応酬が散見される。
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