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Author:青木勇気
小説を出していたり絵本も書きたかったりします。物書きと呼ぶにはおこがましいくらいのものですが、物語を書いて生きていけたら幸せだなと思っています。

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当事者同士の可視化できない「つながり」について

2012.04.07 21:50|雑記
以前、「『佐々木俊尚氏に絡んだ人たち』が本当に恐れるべきもの」という記事を書き、佐々木氏の「朝キュレ」でも取り上げていただいたが、そのときに薄ぼんやりと感じていたことが『「当事者」の時代』に書かれており、ようやく「そこで何が起きていたのか」「自分は何を書こうとしたのか」を理解することができた。

本稿では、個人的な出来事を振り返りなから、ソーシャルメディアにおける「当事者」について考察したい。

まず、ソーシャルメディアの特性上、多数のフォロワーを抱える発言力のある方やアカウントがツイートしたり、シェアしたりすれば、拡散し多くの人の元に届くことになり、さらに拡散していく。当然のことながら、記事に対する様々な感想、意見も流れることになる。

その流れの中で、象徴的な出来事があった。記事内で書いた「恐れるべきなのはサイレント・マジョリティの目」という表現に対し、やまもといちろう氏からTwitterで質問を受け、次のように指摘されたのである。

論争の当事者よりオーディエンスの動きに着目するという「空気を読め」系のご指摘のように見え、いわゆる炎上、論争の事象を語る上では適切な語彙ではないのかなと感じました。



この鋭い指摘に感謝の意を表しつつも、一方で喉元に魚の小骨がつかえるような違和感を覚えた。「空気を読め」とはどういうことなのだろうと。そのときははっきりと分からなかったが、今になってその正体が分かった。

確かに、私はオーディエンスの一人として、オーディエンス側を見ていた。アウトサイドのそのまたアウトサイドから。ほとんど無意識的に、ソーシャルメディアという大きな街を描き、その中にある闘技場に佐々木氏と「広告業界の人たち」を入れ込み、それを観衆たちが見守っていて、さらにそれを外側からサイレント・マジョリティが眺めるという重層構造を作り上げていたのである。

つまり、当事者でない人間が「当事者とそれ以外」を規定し、その枠組みの中であれこれと書いてしまったということだ。すべての人が「当事者」になり得るという注意喚起の意味合いで「対岸の火事ではない」と締めくくったものの、やまもと氏が言うように、「空気を読め」と投げかけた時点でアウトサイドからインサイドに向けた言葉となり、当の本人が「対岸の火事」を眺めることになる。そしてそれは、結局のところアウトサイドではなく、インサイドの話に留まる。客観的中立の視点を持つことなどできないのだ。

また、どんなに当事者に寄り添おうとしたところで、決して当事者の身にはなれない。当事者の動きに注目したところで、「論争の当事者」という表現それ自体が、オーディエンスから脱却できないことを証明してしまう。どう関わっても、第三者として、第三者に可視化され続ける。主語はあくまで「私」でなければならない。「私」以外は当事者に成り得ないのである。

佐々木氏は、自身が当事者となるこの出来事、そして第三者の反応を『「当事者」の時代』の終章で“予言”している。少し長いが引用しよう。

インターネットの言論は同心円的な構造を持っている。誰かが何かについて、世界の中心で語る。その語りに対して、誰かが賛同し、また別の誰かが批判する。誹謗中傷もある。的外れな意見も出る。そうしたさまざまな反応に対し、また別の誰かが反応する。水面に投げた小石の波紋が次々と同心円を形成し、外側に向けて広がっていくように、言論も同心円をつくり出していく。

その同心円の外側には、言葉を発しない多くのサイレントマジョリティが液晶モニタの前で見守っている。怒れる者や同意する者たちの意見を、時には面白がりながら静かに見つめている。

そしてさらにその外側には、その問題に興味など持っていない人々が無限に広がっている。このような新たな透明な世界が、今や〈マイノリティ憑依〉のパラダイムと衝突しつつある。そこではさまざまな亀裂も生まれ、そして個人のさまざまな〈マイノリティ憑依〉も可視化されてしまっている。このメディア空間はマスメディアをも呑み込んで巨大化している。そこではすべてのメディア、すべての個人が包含されている。私も呑み込まれている。そしてあなたも呑み込まれているのだ。

だれもアウトサイドに逃げることはできない。〈マイノリティ憑依〉して外部に出ているように自分には思えても、そこは気がつけば内側だ。



どこまでいっても、当事者以外はすべて第三者にしか成り得ない。しかし、第三者でいるつもりが、いつの間にか当事者になっている。ソーシャルメディアとは、そういう空間なのである。つまり、相対的に自分の立ち位置を確立することはできない。そして、佐々木氏はこのように全員がインサイダーとならざるを得ないメディア空間の中で、自らのスタンスについてこう答えている。

私があなたに「当事者であれ」と求めることはできない。なぜならそれは傍観者としての要求であるからだ。



一見すると、身も蓋もない言葉であるし、そんなことは当たり前じゃないかとも思える。だが、だからこそ、佐々木氏は「当事者」足りうるのだ。たとえば、混迷の時代において求められるのは、客観的な視点で考え、たったひとつの答えを導き出し、人々をリードしていく存在である、という言説があるとする。確かに、それは理想的だ。

しかし、インサイドからアウトサイドに向けた期待として、もしくはアウトサイドからインサイドに向けた圧力として語られるとき、これらはすべて傍観者によるものとなる。当事者について語っているように見えて、そこに当事者はいない。第三者を語る第三者がいるだけである。

では、再び私の話に戻そう。ソーシャルメディア上での佐々木氏とそれに絡む人たちのやり取りを見て書く、ここまでは「傍観者として」である。そしてこれを佐々木氏本人が読み、反応する。私と同様に傍観者としてそれを見守った人たちが読み、反応する。今度は、私が「当事者として」その反応を読み、アウトプットする。この関係性はループし、言論のフェイズは変わらない。

ただ、私はここに希望を見出している。というのは、上記のような体験を通し、自らを当事者化することができたからである。ある人が相手に「当事者であれ」と求めることができなくとも、その相手が「当事者であろう」と受け取ることはできる。

佐々木俊尚氏から見た私は、Twitterでいえば一人のフォロワーに過ぎないし、著作でいえば一人の読者に過ぎない。しかし、何かを受け取り、自ら発信することで当人に届けることができ、そこにおいて傍観者から当事者へと昇華することができる。これは、間違いなくソーシャルメディアの強みだ。

私は、今まさに書くという行為に対して徹底的に当事者であろうとしている。そして、この当事者であろうとする行為や意志は誰かの元に届くと思っている。発信することの意味は、そのような可視化できない「つながり」の中にある。

物理的に会うことはなくとも、当事者同士は「出会う」。そして、ソーシャルメディアはその出会いの界面のようなものを内含している。私はそう信じている。「当事者」には必ず届くと。

※言論プラットフォーム「アゴラ」に掲載された記事を転載しています
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