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Author:青木勇気
小説を出していたり絵本も書きたかったりします。物書きと呼ぶにはおこがましいくらいのものですが、物語を書いて生きていけたら幸せだなと思っています。

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現代に受け継がれた「ソフィスト」を巡る問題について

2012.03.23 20:31|雑記
「ソフィスト【sophist】」という言葉がある。一言でいえば、古代ギリシアのアテナイを中心に活動した、金銭を受け取り弁論術や処世術を教える弁論家・教育家のことである。耳慣れないという方でも、「ソフィスティケート【sophisticate】」、もしくは「ソフィスティケイテッド【sophisticated】」という単語ならばご存知だろう。そして、「洗練された」「都会的な」という意味で理解しているはずだ。

しかし、それは例えるなら、三面六臂の阿修羅像の優しい面持ちの部分を説明したに過ぎない。つまり、「ソフィスト」は様々な顔を見せる存在であり、それが故にそこから派生した言葉も多彩な意味を持つのである。本稿では、この「ソフィスト」とは何者なのかを簡潔に説明しながら、現代において「ソフィスト」がどんな存在として機能しているのかを考察したい。 
 
歴史的背景をかいつまんで説明すると、古代ギリシアで機能していた民主制が戦争によりその効力を失い、政治的判断を行う評議会には雄弁を用い言論を支配する者が現れ、国策をコントロールできるようになった。そのような状況下で、政治的な成功を望む者には大衆に自らの思想、主張を信じさせる能力が必要となる。そこに、弁論術を身につけようとする者と、それを教える「ソフィスト」の関係が成り立つこととなったと言われている。

そしてまた、この状況に真っ向から対峙する者として、プラトンによって真の知を探究するソクラテスが描かれ、相手を説得する、もしくは打ち負かすための弁論を良しとする「ソフィスト」は批判的な文脈で語られるようになった。

もちろん、本当にそうだったかは分からないし、説明が雑だとお叱りを受けるかもしれない。ただ、ここで注目したいのは、語源を共にする言葉が「sophisticate=洗練」と「sophism=詭弁」のように、全く違った意味を持つという事実であり、そこから見出される問題についてである。

つまり、何が言いたいのかといえば、一見すると相反する要素を併せ持つ「ソフィスト」は現代においても存在していて、古代ギリシアと同様の状況を生み出しているのではないかということだ。

勘のいい方は、すでに頭の中にある人物が浮かんでいるのではないだろうか。そう、「上杉隆」である。上杉隆氏を形容する言葉は実に多彩だ。見る人によって大きく印象が異なるこの多彩さこそが、ソフィストたりうる要素であり、ソフィストを「弁論家」と捉えたときこれほど説明しやすい人物はいない。上杉氏の弁論術がどのようなものであるかは、先日話題になった「3.14頂上決戦 上杉隆 VS 町山智浩 徹底討論」での話しぶりを分析した記事等があるので、そちらをご参照いただければと思う。

ただ、筆者はここで上杉隆氏をソフィスト像に重ね合わせて揶揄したり、発言の矛盾点を指摘したり、デマゴーグを暴きたいわけではない。むしろ、問題視しているのは「ソフィスト」の例えとして上杉氏が確からしいか否かではなく、「ソクラテスやプラトンは誰なのか」である。

上杉氏を「ソフィスト」とする考えに同調できても、「ソクラテス」やそれを語る「プラトン」を具体的にイメージできないのではないだろうか。そしてそれは、「ソフィスト」を正す機能を持たないことを意味する。そうなれば、ある人から見れば詭弁を弄する「嘘つき」であり、またある人から見れば洗練された「活動家」であるという、「ソフィスト」の多面性が保たれることになる。

「アイツが嘘をついているのは明らかなのに何をバカなことを」と呆れるかもしれないが、よく考えてみてほしい。では、なぜ上杉氏は一定の支持を受けているのか。誰がどう見ても嘘つきで悪質な情報を拡散しているのだとしたら、支持を集めるはずがないと考えるのが普通であろう。もちろん、支持されるのには理由がある。政府やマスメディアが隠している“不都合な真実”という武器を手にしているからだ。

そして、これが武器となりえるのは、一部の人々の間で政府やマスメディアが信頼に足りるものとして機能しないことを証明する。つまり、大震災や原発問題に際して信頼を失墜した者たちは、事実そうであるかどうかの議論を待たずして、正しい情報を伝える存在ではなくなってしまっているということだ。そうなれば、もう「ソフィスト」を断罪することはできない。

また、言うまでもなく「ソフィスト」は一人ではない。これは「上杉隆の他にも同様のソフィストがいるから気をつけろ」といった牧歌的な警句ではない。むしろ、認識すべきなのは、「上杉隆=ソフィスト」という構図で語ってきたが、そもそもこの視座が成立しなくなる状況である。

“不都合な真実”を暴こうとする者こそ正しいとする人々には、それを批判し断罪する者の方が「ソフィスト」に見え、“不都合な真実”を隠す側の人間となる。そして、批判する者が多ければ多いほど、批判される者はある種のヒロイズムを帯びるようになる。ここにおいて、冒頭で述べた「ソフィスト」に内在する二律背反性は補完されるのである。

「“不都合な真実”を教える」と言いながらも、それが何であるかを示せない限りは、決して「ソフィスト」の域を出ることはない。だが、誰が「ソクラテス」になりうるのか、誰が「プラトン」的視座を持ちえるのかは、また別の話である。混迷する時代において、この問題は根深い。“不都合な真実”は今も一人歩きし、多くの人の元に届いているのだ。

※言論プラットフォーム「アゴラ」に掲載された記事を転載しています
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