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Author:青木勇気
小説を出していたり絵本も書きたかったりします。物書きと呼ぶにはおこがましいくらいのものですが、物語を書いて生きていけたら幸せだなと思っています。

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原発問題において不可欠なパラダイムシフトについて

2012.03.14 19:18|雑記
先日のエントリーでは、「正しさについては沈黙しなければならない」という言い回しで「正しさ」の要求が物事を歪めること、そしてそうならないために想像力が必要であることを指摘したが、本稿ではもう一歩進み原発問題における「パラダイムシフト」の必要性を論じたい。

まず、この話は「諸々うまくいっていない」ことを前提とする。震災から1年、政府やマスコミは信頼を失墜し、ネットには有象無象の意見やデマが飛び交い、震災瓦礫受け入れひとつを取っても遅々として進まず、課題は山積する一方だ。中でも、原発問題はひとつのテーマを超えて、重く複雑で、もはや熟議による問題解決は極めて難しいと言えるだろう。
 
「なぜ、放射能をそんなに恐れるのかわからない」という人もいれば、「なぜ、低線量被ばくは危険ではないと言えるのかわからない」という人もいる。そして、片方が確からしいと思われる科学的な根拠を持ち、それによってもう片方を冷静に判断すべきだと説得したとしよう。当然ながら、この行為自体は無駄ではないし、それが意味することを理解し、少なからず印象は変わるかもしれない。

ただ、だからといって片方が正しく、片方が間違っているとは言えないし、「安心」と「不安」は共存する。論理的な話や科学的な検証といった「正しさ」は必要であり、それを信じて真摯に情報提供に努めることに価値はあっても、それだけでは解決しない。これは、今なお放射能への恐怖を抱える人が多数いることが証明している。

もちろん、デマや事実誤認、無闇に不安を煽るような言動は是正されてしかりである。だが、「アイツはデマを言っている。本当は~である」という文脈は、否定を伴う「正しさの表明」であり、仮にそれが客観性な事実だとしても、そういう形で提示すると不快感や拒否反応はもとより、逆説的に猜疑心を発生させる要因となる。科学的な証明や相対的な「正しさ」をどう捉えるかは受け手に委ねるのが賢明であろう。こうでなければならないと「正しさ」を追求し、そうでないものとの間を分断する必要はない。

また、すべての原発が停止しても、それは脱原発を提唱する人たちが「正しい」ことを意味しない。原発が停止しても再稼働してもそれを良しとする人がいるというのが事実であって、その結果如何で正しさは決まらない。そもそも、原発を停止しても事故のリスクはゼロではないのだから、それをゴールに設定しても仕方がないのである。

だから、正しい間違っている、勝った負けたの話では決してない。もしそう考えるのであれば、原発の是非は主張の異なるものとの正しさを巡る議論ということとなり、復興とは無関係のものである。「正しさ」について沈黙しなければならないというのは、そういう意味だ。

ここで発想の転換、つまりは「パラダイムシフト」が必要となる。「正しさ」を決められないのなら、「正しさ」を求めなければいい、と。

これは言葉遊びでも何でもない。「なぜ、論理的整合性を持った話をしているのに説得できないのだろうか」「どうして、こんなに恐ろしいものを許容できるのだろうか」という絶望的な思いをすることなく、原発問題の妥協点を見出すために外せない視点なのである。つまり、原発の是非、安全か危険かの議論からデタッチして問題解決に向かうということだ。

「妥協点」という言葉はポジティブではないので、「共通目的」と言い換えよう。具体的には、「被災地の復興」と「福島県から避難している人たちのケア」である。どうアプローチするかはさておき、これは議論を待たずして共有できる目標のはずだ。筆者はそう認識しているし、少なくともそんな必要はないと本気で主張する人はいないだろう。

しかし、この「共通目的」が成立しないようなことが現に起きている。震災瓦礫の受け入れ問題だ。一言で「反対派」といっても、その理由や言い分は「放射能や有害物質によるリスクが拭えない」「絆という言葉にすり替えた利権がらみの茶番だから」「コストをかけず現地に焼却炉を建設するなり方法がある」など様々である。早急に判断を下し実行に移さなければならないからといって、これらは無視できないものがある。

たとえば、衆議院議員・河野太郎氏のようにQ&A方式で一つひとつ疑問点をつぶしていくやり方は、効果的かつ誠意のある対応だと思うが、瓦礫受け入れに関する住民説明会では、熟議による説得どころかまともにコミュニケーションをとることも難しいような場面がある。このような状況下で受け入れを実行した場合、反対する人たちは「強制的に受け入れさせられた」と言うだろう。望まないことが行われず不本意だ、何か陰謀があるのではないかと。

リスクがあるともないとも言えない、不正があるかないか分からない、他の方法が良いか否か判断できないのであれば、「そうするのが正しいから」「受け入れてくれると困るから」「他に方法がないから」といった種類の説得は効力を持たない。反対している人たちには、「敵」がいるからだ。それが「放射能・有害物質」の人もいれば、「信頼できない政府・薄汚い利権」の人もいれば、「曖昧な説明・玉石混淆のメディア」の人もいる。

であれば、それらの「敵」の存在を否定せず(正しさを要求せず)、かつ「敵」を語ることからデタッチして「共通目的」を共有する必要がある。つまり、「正しい」ことではなく「良い」ことをするというように文脈に変えて、反対派をモチベートするということである。「安全だから大丈夫です。受け入れてください」という受動的な表現ではなく、能動的な表現に変えていくことである。

「政府を信じなくていいですし、テキトーなことをいうメディアは無視して、被災地で不便を強いられている人たちを支援し、福島を差別から守りましょう」というように。少し乱暴な言い方だが、「悪いヤツはたくさんいるが、自分は良いことをしたい」という普遍的な感情を呼び起こすということである。

抽象的過ぎてイメージが湧かないかもしれないので、他の問題でこの考え方が有効となる例を示そう。エネルギー施策について語る場合が分かりやすい。「再稼働か廃炉か」という文脈で化石燃料を原子力と比較してコストとリスクを天秤にかけるのではなく、まず「どちらが正しいか」という議論からデタッチし、そこから外れた具体的な案について語る。そうすれば、「金よりも命が大切」という反論を招くこともない。

たとえば「スマートグリッド(次世代送電網)」は、原子力発電の代替案という原発の是非を発信元とする議論からデタッチした形、つまり省エネとコスト削減という観点で語れるものである。また、「天然ガス」もクリーン性や供給安定性という観点で、他の化石燃料と比較して語れる。もちろん、これは電力が賄えるという主張ではない。大切なのはあくまで、共有できる命題を掲げ、その実現を目指すことである。

難解な課題が山積し、そこには様々な思惑が複雑に絡み合っている。だが、だからといって、議論を難しくし、停滞させてはならない。少なくとも、批判に対する批判や揚げ足の取り合いに終始している場合ではない。被災地で助けを求める人、避難生活を余儀なくされている人がいる。これは紛れもない事実だ。

今、必要なのは「正しさ」を超えたパラダイムシフトなのである。

※言論プラットフォーム「アゴラ」に掲載された記事を転載しています
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