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青木勇気

Author:青木勇気
小説を出していたり絵本も書きたかったりします。物書きと呼ぶにはおこがましいくらいのものですが、物語を書いて生きていけたら幸せだなと思っています。

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二日後に書いたこと。

2011.10.20 18:26|雑記
3.13に書いたことを振り返ってみた。
そのとき思っていたことと、今感じていることの間に横たわる溝を埋める作業として。

 ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄
「こんなときに不謹慎かな」と感じる普遍性、これはどこから来るのか。当事者意識とは違う何か。twitterは使いようによっては匿名性も高く、そんなに発言を制約する必要はないわけで、普段通りでいいはずなのにもかかわらず。「国民性」とひとくくりにすると説明しやすいが、基本的に自分は見られている、迷惑をかけてはいけない、役に立たなければならないという特性が強いように思える。

むしろ、「利他的」といってもいいかもしれない。ただ、利他的というと、相対的に自分勝手、我関せず、利害関係の中で奔走する、混乱に乗じて人を陥れるといった、利己的なイメージのするネガティブな要素と比較され美徳とされがちだが、twitterでの情報提供やRTが必ずしも利他的ではない。

というのも、第一に、コミットが弱い(もちろん、サイトやアプリを立ち上げたり具体的なソリューション提供もあるが)。第二に、あくまでtwitterの中でのアクションであり、アカウントというある種の分身を用いたものであり、個人としてのアクションではない。そして第三に、一見ものすごく広まったり影響を及ぼしているように見えるが、それはあくまでtwitterというツールの力であり、個人としての力ではない。

つまり、このスキームにおいては「当事者」とは向き合えない。もちろん、人々は善意で動いている。誰かの役に立ちたい、誰かを助けたいと思っている。それは美しい。暴動などに発展することなく感情をコントロールできる自制力は、世界が認めるようにトップクラスなのだろうとも思う。でも、それは「誰か」だからではないだろうか。

日常において、人は「誰か」のために生きていない。仕事上はそうだとしても。利他とは、利害関係の上位概念であり、「誰か」のために個人を捧げること。もっといえば、自己が持ちうるすべてを投げ出し尽力した先にある、自己や自意識が消えた原体験こそが利他につながる。だから必ずしも空気を読んで自粛する必要はない。

人は、価値観も性格もできることも得意分野も違う。皆が同じ方向を向いて同じレベルで同じことをする必要ない。というより、できない。「何かをすべきなのではないか、いやきっとそうだ、自分にも何かができる」、それで十分ではないか。大切なのは、何かをアドオンで考え、動ける余裕、スタミナを蓄えることであり、人を思いやり、人のために動くことはそれができてはじめて成立する。だから皆、普段どおりの生活を送れる人に関しては、まずは自分らしい生活、空気感を取り戻してほしいと思う。それは決して「不謹慎」なことじゃない。

なぜ人は、自分が無力だと感じたときに祈るのか、それはまさに自分を無力だと知っているから。自分が今ここですぐにできるのは祈ることだけだと、正しく認識している。「祈るだけなら誰にでもできる、大切なのはその先だ」という人もいるだろうけど、大事なのは“誰もがする”ことができること。

その先は個人に委ねられている。強制はできないし、強制しても意味がない。一致団結を促すのなら、なおさら。知識としてこうした方がいい、こうするべきだという情報は必要だが、あくまで判断するのは自分。twitterは素晴らしいし、これを使わなければ知りえなかったこと、出会えなかった人、実現しなかった仕事などたくさんあると個人としても強く感じているが、他のあまたあるWebサービス含めて、世界の、人生の、ほんの一部だということは忘れてはいけないと思う。

twitterでこんなときにくだらないこと言いやがってと叩かれたとしても、個人としてくだらない、不謹慎だということにはなりえない。一部を見て一部を批判するのは簡単だが、もう少し広く、深く、ものを見てみればいいと思えばいい。一人ひとりが自らを、「全体」として肯定できるように。叩かれること、嫌われることを恐れては何も始まらない。これは恋愛と同じ。

まずは他者を受け入れ、愛すること。でなければ、誰からも受け入れてもらえない。愛や利得を先に求めてはいけない。その先には利他はない。緊急時には、改めて言うまでもないような当たり前のことが失われるものなのであえて言う。何か有益なことができないからといって個人は損なわれない。

明日から(もうとっくに日付変わっていますが)普通に暮らしましょう。少なくとも、時間空間的に普段どおりの人は。不安や、悲しみや、哀れみや、怒り、その他諸々の感情を心の中にしまって。私はできる限りそうします。「表に出さない=考えていない、冷徹」ではないので。

だから、まずは静かに祈ります。それが無力だとしても。そして、とことん自分で考えます。自分にもできることを。それが、自己満足に見えたとしても。

 ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄
少しだけ推敲しながら、あまり溝はないと感じる。
ただ、週末は振り返りではなく、何か切り開くものを書こうと思う。
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