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Author:青木勇気
小説を出していたり絵本も書きたかったりします。物書きと呼ぶにはおこがましいくらいのものですが、物語を書いて生きていけたら幸せだなと思っています。

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「脱原発か否か」の議論より大切なもの

2012.01.20 23:58|雑記
3.11の震災では、津波による被害の凄惨さを目の当たりにし、続けざまに原発事故という二次災害に見舞われた。早期の復興を目指し様々な取り組みが行われるとともに、数多ある課題の解決に向け日々議論が交わされている。

だが、ひとつの目的のもとに一致団結しているように見える中にも不協和音は存在する。それはいつしか「反原発派」「原発推進派」と呼ばれるようになり、より一層課題を複雑なものにした。ここにおいては、世間を席巻している「脱原発か否か」の議論の是非を問いたいと思う。

「脱原発」を掲げる理由が、「人の命以上に価値のあるものはない。だが、原発はそれを脅かすものである。だから即刻撤廃すべき」だとしたら、確かにそれ以上重んじることはないように思える。ただ、これは「命を脅かす存在としての原発」という前提の上にしか成り立たない。

一定量の放射能を浴びれば深刻な事態になることは自明だが、逆に言えば、一定量の放射能を浴びなければ深刻な事態にはならないのである。そもそも前提とする部分に確実な根拠がないわけだから、「危険な状態になる可能性がある」という理由で断定的な物言いをすることはアンフェアだ。同様に、たとえば専門家による「1mSv以下は危険ではない」という見解に対し、「危険ではないと言っても安全であるとは証明できない」と返すことも建設的な議論にならないため、避けるべきだろう。

魔法のように日本中の原子力発電所や核廃棄物を消し去り、かつ他のエネルギーで同レベルの電力を産み出せるというなら間違いなくそれを選択するだろう。だが、そんなことは現実的に不可能だ。では、議論を進めるために何をすべきか。白か黒かで話を始めるのではなく、まずは低線量放射線に関するデータを多角的に検証し、過剰相対リスクと過剰絶対リスクをすみ分け、正確な情報として開示・共有する必要がある。そして、原発が廃止になろうがならなかろうが、「起こってしまったこと」に対して除染その他具体的な施策を実行していかなければならない。

また、「反原発運動」は必ずしも被災地支援につながらない。というのは、原発は危険だと言えば言うほど、すでに事故が起きてしまった福島にいる人の肩身は狭くなることがあるからだ。つまり、議論の中心にある低線量被ばくの「実害」よりも、「風評被害」の方が明らかに深刻ということである。これは、福島県内で農家や農園を営む方々の収穫物が売れない、買い叩かれるといった事態だけを指すものではない。

仮に、ある人が「私は福島で生まれ、福島で育ち、今も福島に住んでいます」と言ったとする。震災前だったら特別な印象を与えれないと思うが、今はそうではない。相手に警戒、同情、好奇、その他様々な感情を呼び起こす言葉になっているのだ。「え、そうなんだ…」「いろいろ大変ですよね」「どのあたりに住んでいるんですか!?」といった反応である。これを「私は東京で生まれ、東京で育ち、今も東京に住んでいます」と言い換えたら、「ふーん、生粋の都会人なんだね」くらいの反応しかないだろう。

つまり、「福島県」は47都道府県のひとつを示す記号とは別の「放射能があるところ」という意味を付与されている、そしてそれが最大の風評被害に繋がっているのである。事実、他県の人間から「放射能が伝染する」となじられた方や、福島県に住んでいるというだけで「自分の娘はちゃんと結婚できるだろうか」と悩む方がいる。もちろん、これらはごく一部の話かもしれないが、当人にとっては「一部の人の話」ではすまされない。

すぐにでも取り組むべきなのは、風評被害の沈静化ではないだろうか。その原因であるところの原発や放射能を消すことはできないのだから、危険であると言い結果的に不安にさせるよりは、実際に住み慣れた故郷を離れて生活することを余儀なくされている方々や、福島に住んでいることで精神的に弱ってしまっている方々に何ができるかを考え、行動することから始めるべきではないだろうか。

そしてもうひとつ、スタンスとして「無闇に批判しないこと」「この人(たち)は自分(たち)とは違うとレッテルを貼らないこと」も心がけたい。一見すると違うことを言っているようで、実のところ目指しているものは同じということは往々にしてある。原発問題も例外ではない。「反原発派」「原発推進派」というように対立した状況を示す呼び名が付けられていたとしても、理性的に考えれば、大量の放射能を垂れ流し続け人々の身を危険に晒して良いと考える者などいるはずはなく、敵・味方、善・悪を識別する必要がないことは自ずと分かるはずなのだ。

偉そうなことを言っているが、私自身震災当時は妻が妊娠中だったこともあり、原発事故に際して的確な現状把握をするよりも「見えない恐怖」を避ける方が勝っていた。飲み水はもちろん、料理に使う水までペットボトルの水にしたし、福島県産の野菜、果物、牛乳、魚などは一切購入しなかった。過剰な反応だったかもしれないが、やはり少しでもリスクにつながることは避けたかったのである。

政府や東電の玉虫色の発言に辟易していたし、「チェルノブイリ周辺では放射線被ばくの影響として小児甲状腺がんが激増している」といったニュースや、まことしやかな噂やデマがあふれ返っていたわけだから当然かもしれないが、ある者は被災者であって「被害者」ではなく、またある者には過失はあるが「加害者」ではないというように考える余裕はなかった。

命は尊い、子供たちの未来を守りたい、これに異論はない。私も子供を持つひとりの親として、外で遊ぶのは不安、安心して食べ物を買えないといった状況になることは絶対に避けたい。だが、そのことと現状すべきことは別の話である。「脱原発か否か」の議論より大切なものが、目の前にあるのだ。

※言論プラットフォーム「アゴラ」に掲載された記事を転載しています
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