04 | 2012/05 | 06
-
- - 1 2 3 4 5
6 7 8 9 10 11 12
13 14 15 16 17 18 19
20 21 22 23 24 25 26
27 28 29 30 31 - -
プロフィール

青木勇気

Author:青木勇気
小説を出していたり絵本も書きたかったりします。物書きと呼ぶにはおこがましいくらいのものですが、物語を書いて生きていけたら幸せだなと思っています。

リンク

最新記事

最新トラックバック

月別アーカイブ

カテゴリ

検索フォーム

RSSリンクの表示

スポンサーサイト

--.--.-- --:--|スポンサー広告
上記の広告は1ヶ月以上更新のないブログに表示されています。
新しい記事を書く事で広告が消せます。

コンテンツの「使い捨て」は時代遅れである

2012.05.05 09:24|雑記
先日のエントリーでは、「匿名のコメント欄」が都合良く使われることでアンフェアな空間になると論じたが、この「都合」はユーザー側にとっての話だけではない。サイト側にとっても言えることであり、都合を優先してコンテンツを育てることを怠っているように思えるものが多い。

本稿では、ネット上でコンテンツが使い捨てにされている現状と、これからのコンテンツのあり方について考察したい。
 
あるWebサイトがTwitterやFacebookと連動していれば、そこにある情報は拡散・共有しやすく、コメントもしやすい。当然ながら、サイト運営側としてもページビューを上げるためにソーシャルプラグインを導入し、UIを設計する。これ自体はトレンドで、むしろそうでないサイトは時代遅れとさえ言える。

また、従来のような「ストック型」コンテンツよりも、「フロー型」のUGCの方が短い期間で盛り上げる必要があるため、炎上マーケティングを取り入れざるをえず、その一環としてコメント欄を有効活用するのは常套手段となる。言うまでもなく、「匿名」であればこの手段はより活きる。

某サイトで筆者が経験した例に挙げよう。ある匿名の人がひとつめのコメントで記事を小馬鹿にしたものや徹底的に批判した文章を書くと、アジテーションに乗っかった人たちによってその論調がヒートアップする。そうすると、論調から外れた意見を書きにくい空気が出来上がる。

実際に、意見が合わないと読み手同士のやりとりは罵り合いや揚げ足取りに終始することが多い。また、罵詈雑言の類いを書き散らしている人に書き手本人が返信をすると、大抵の場合はトーンダウンするか、無視するかである(匿名だからと開き直って批判が加速することもあるが)。

もちろん、必ずしもこのような状況になるわけではないし、匿名アカウントであっても建設的な意見や反論を寄せる人はいるが、自由かつ公正な意見交換による議論が求められているようには到底思えない。

なぜなら、ほとんどの場合、書き手に不明な点について質問をしたり、事実誤認を具体的に指摘したり、自分の主張を提示しつつ改めて意見を聞くなど、議論をするにあたっての最低限のマナーが守られていないからだ。それが故に、多様な視点、考え方を提供する空間であり、その善し悪しを決めるサイトではないのにもかかわらず、「議論する場」ではなく「評価する場」になってしまっているのである。

炎上しないコメント欄は、馴れ合いのサロンのようでつまらないという見方もあるだろうし、盛り上がりに欠けるかもしれない。コメント欄が荒れるほど記事への注目度やPVが上がるため外せないというのもわかる。ただ、確実にそこにあるコンテンツの価値は貶められる。もっといえば、コンテンツを「使い捨てる」ことになる。

建設的な議論をしようとしない匿名のアカウントが一定数集まり、人を不快にさせる言葉が溢れる2ちゃんねる化した場には、書き手も読み手も進んで近づこうとしないし、結果的にすべての人が書きっ放しになってしまう。書き手にここで何かを書きたい、この人たちと議論したいというモチベーションが湧かなくなればコンテンツの質は上がらないし、サイト側や読み手に書き手を支援し、育てる気がなければ、そこから離れていって当然だろう。多くの人に見られるという以外にメリットのないサイトでは、コンテンツはただ消費されるだけだからだ。

たとえば、アゴラのように灰汁の強い論客陣が思い思いに書いている投稿型サイトも、非常に炎上しやすいと言える。ただ、それでも議論できる場にはなっている。Facebookアカウントで、つまりは実名(一部なりすましもあるが)でコメントするようになっているからだ。

Facebookのアカウントがないと書き込めないから不便、ユーザビリティが低い、コメントのハードルが高く盛り上がらず閉鎖的という見方もあるとは思う。ただ、議論の妨げとなる誹謗中傷、邪推などのノイズは圧倒的に少なく、書き手と読み手の間に対等な関係が保たれる構造になっている。
 
Facebookのアカウントからのコメントは、信頼性が高いだけでなく、その人の専門領域やバックグラウンド(なりすまし含め)が分かるため興味深い。また、記事に対する質問、反論、事実誤認の指摘などの精度も高いため、書き手としては手応えを感じることができ、学びもある。結果的に、そこでさらに別の視点が加えられ、場合によっては加筆・修正を加えたり、シリーズ化することもある。読み手としても、インタラクティブなコメント欄であることを感じられるはずだ。

つまり、実名で書かれた記事へのリアクションとして、ある程度自分の立場を明かした上でコメントをする、それに対し書き手がコメントをする、そしてそれをまた別の人が…というように有機的な空間となる。これは、先日のエントリーのコメント欄を見ていただければ一目瞭然だ。

そろそろまとめに入ろう。結局のところ、ネットだろうがなんだろうが匿名性を隠れ蓑にして人格否定や誹謗中傷が行われるのはおかしい、匿名を選択できるのは当然の権利、サイト運営上必然といった議論にすり替えて開き直ることこそがアンフェアだ、Facebookのアカウントであれば社会性が保たれるため議論の形を取らないノイズは発生しにくい、というごく当たり前の話であり、本来くどくどと書くまでもないことなのだ。

ただ、一見すると自由で公正さがあるシステムが呪いの言葉を呼び込み、逆に抑止力が働き不便で閉鎖的に見えるシステムが、まともな議論を生み出すということが現に起きていて、このことはコンテンツをどう扱うべきかを考えるきっかけを与えてくれる。

まずサイト運営者は、ユーザー参加型のサイトを自由でソーシャルな場などと安易に定義するのではなく、建設的な議論を行える場に必要なものは何か、どういうサイトにするためにコンテンツがあるのか、参加者のモチベーションを高めコンテンツの質を保つにはどうすればいいか、どうやって発信者を増やしていくかなど、グランドデザインを描く必要があるのではないだろうか。

そして参加者は、個人としてそこにどういう立ち位置で関わるか、どのようなマナーが必要かを考えるべきではないだろうか。いずれにせよ、発信者をモチベートし、支援し、共にコンテンツをつくりあげていくという感覚がなく、サイト管理者、書き手、読み手という構造の中で有限のコンテンツを消費するタイプのものは廃れていくだろうと思う。

今やソーシャルメディアは、クラウドファンディングなどにより「寄付/共同購入文化」を浸透させつつあり、「賛同、共感、支援」といった贈与の精神によって人が動き、新しいコンテンツ、サービス、社会貢献活動を生み出している。

これからは、発信者に共感し、支援し、共につくり、収穫し、場合によっては自らも発信者となる、こういうあり方が主流になるだろうと思う。そんな中で「反対、否定、批判」を原動力にして、一時的に爽快感や炎上を生み出す方法を採用し続ければ、必然的にこの流れに逆行することになる。

「匿名のコメント欄」が都合良く使われること、つまりはコンテンツの「使い捨て」は時代遅れなのである。

※言論プラットフォーム「アゴラ」に掲載された記事を転載しています
スポンサーサイト
上記広告は1ヶ月以上更新のないブログに表示されています。新しい記事を書くことで広告を消せます。