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Author:青木勇気
小説を出していたり絵本も書きたかったりします。物書きと呼ぶにはおこがましいくらいのものですが、物語を書いて生きていけたら幸せだなと思っています。

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「待つことが最も合理的である」というパラドックスについて

2012.01.18 01:04|雑記
昨夜、久々にTwitterで高橋源一郎氏(@takagengen)の「午前0時の小説ラジオ」(一つのテーマを決めての連続ツイート)が流れた。結論から言うと、ツイート内で紹介された「世界一素敵な学校」は非常に興味深く、その特殊なシステムには大いに考えさせられた。だが、ここでは派生的に浮き彫りにされた課題の方にフォーカスしたいと思う。

ツイートの中で、「世界一素敵な学校」とされるサドベリー・バリー校で行われる「教育」は、一般的な「学校教育」に比べて効率的であることが示されるが、結果としてそうなっているものの、アプローチ自体は決して「効率的」とは言えない。なぜなら、サドベリー・バリー校における教育は、「待つ」ことだからだ。 高橋氏は、その「教育」を次にように説明している。

この学校の根底にあるのは、「人間には自己教育への鮮烈な欲求がある」という考え方だ。人間には、おとなになりたい、必要なことをどうしても知りたい、という本能が埋め込まれている。「教育」とは、本来、誰もが持っているはずの、そんな「自己教育」の本能が発動するのを助けることだ。

つまり、生徒(そこではそう呼ばない。というより“いない”)自らこうしたいというまで「教え」ないわけだが、「学校教育」においてはありえないことである。個人差はあるものの、基本スタンスとして「教える者=教師」「教わる者=生徒」という構図があり、何らかのカリキュラムがある。そして、それがあるべき姿とされているのだ。
 
では、「課題」とは何であるか。それは、非合理に見えることがむしろ最大限の結果を生み出し、合理的なシステムと思われるものが非効率であるという皮肉な結果が見えたにもかかわらず、「なぜそんなことが可能なのか」がわからないことである。

高橋氏の連続ツイートを読んだ半数以上の人が、なんだかよくわからないがこの学校はすごいし理想的なんじゃないかと感じたとしても、「待つ」ことは決して選択されない。「待つ」ことと良い結果の間に因果関係が見出せないからだ。もっといえば、待つという「何もしない状態」が、いろいろと積極的に働きかけるよりも大きな結果を生み出すというパラドックスを認めるわけにはいかないのである。

一般に、結果が予想できない状態はリスクを冒すことを指し、合理的ではないとされる。教育の現場において言えば、「自発性が起動するのを待つなどと悠長なことは言っていられない」という多数派の意見が勝つだろう。基本的に、不確かであることは採用されないである。このことは、テストの採点で考えてみるとわかりやすい。テストの点数というのは、正確さとスピードへの評価である。たとえば「制限時間45分 20問(1問5点)」というテストが意味するのは、「少しでも早く(多く)解答にたどり着くことを目指せ」だ。テストによって最高点と最低点、平均点を割り出し、上位と下位をすみ分けることができる。つまり、数値化という「確かさ」を獲得できるのだ。

だが、この確かさにより「落ちこぼれ」が産まれる。落ちこぼれないように勉強させるシステムを作りあげた、そのことによってである。皮肉な話だが、数値化により上位下位が判定されるテストがなければ落ちこぼれは存在しない。現に、サドベリー・バリー校には落ちこぼれがいない。というよりは、落ちこぼれという概念がない。ある子供が、相対的に読み書きが遅れていたとしても、それは落ちこぼれたことを意味しない。「人より遅い」ということがネガティブな意味合いを帯びないのである。

ここまで考えると、能力の数値化は能力の可視化とイコールではないことがわかる。「確かさ」という画一性を得た代わりに、「不確定さ」という多様性を失ったのである。これは、あらかじめ価値基準を設定することで人間をタイプ分けし、自ら能力を発見する自由を与えない状態と言えるが、サドベリー・バリー校の考え方は、まさにこのことへのアンチテーゼなのである。

子どもたちを「おとな」として遇すること。子どもたちに「自分の主人は自分なんだ」と気づかせること。子どもたちに「自分の人生を自分の意志で歩ませること」。だから、この学校では、「自己責任」は、もっとも美しく、峻厳なことばでもある。

サドベリー・バリー校が実践しているように、子どもたちが自発的に何かをしたいと思うときのために「完全な準備」をしておくことは、簡単ではない。中途半端に真似てもうまくいかないだろうし、そもそも全ての学校がすぐにでも実践すべきだという議論でもない。むしろ、まずすべきことはパラダイムシフトである。「教育とは、学校とは、教師とは、生徒とはこうあるべきだ」「そんなことができるはずがない」という確信を疑うことである。そうしなければ、「なぜそんなことが可能なのか」は永遠にわからないのだ。

最後に、ひとつの可能性として質問を投げかけたいと思う。高橋氏は、教育の中身から離れ、次のように「統治」システムに触れている。

だが、この学校の真の秘密は、他にある。この学校でもっとも驚くべきことは、実は、いままでに書いた「教育」の「内容」ではない。この学校の「統治」のシステムだ。この学校では、すべてが、校則も、予算も、学校運営も、「教師」の採用・解雇まで「全校集会」で決められる。そこでは、おとなも子どもも同じ1票の権利があるのだ。4歳の子どもも「校長」も同じ1票。それ故、学校スタッフではなく、子どもたちの意志がもっとも優先される。この学校の「教育」を支えているのは、この、ルソー的といってもいいかもしれない、ラディカルな民主主義の考え方だ。

この原理を「選挙における投票」に応用できないものだろうか。投票率の低下に対し「インターネット投票を」と方法論を提示することも大切だが、「当事者意識」を養うことを第一優先にできないだろうか。つまりは、「投票率を70%に上げるための施策」ではなく、「(自己責任の表れとして)当たり前のこと」にすることを目指すのである。

もちろん、現状のパラダイムにおいてこんな提案をしても、ただのキレイゴトと一笑に付されるだけだろう。だが、現実にサドベリー・バリー校という空間は存在している。ほとんど信じられないようなことだとしても、そこには多くの学びがある。いずれにせよ、高橋氏の連続ツイートは「教育」という枠組みの中でのみ語るのではなく、「コミュニティ」のあり方を示唆するものとして捉えるべきであることは間違いない。

※言論プラットフォーム「アゴラ」に掲載された記事を転載しています
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