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Author:青木勇気
小説を出していたり絵本も書きたかったりします。物書きと呼ぶにはおこがましいくらいのものですが、物語を書いて生きていけたら幸せだなと思っています。

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善でも悪でもない、「怠惰」について。

2011.11.23 23:59|雑記
3.11の震災後、様々な情報が行き交う中、気になったものがある。いわゆる、「陰謀論」だ。twitterの拡散性も相まって有象無象のデマやまことしやかな噂話などが溢れかえり、絶対悪を描き出す「陰謀論」が台頭すると、その対象者たちはとにかく大いに非難された。そして、分かりやすい形で善人と悪人という構図が出来上がっていった。内容もそれが与えるインパクトも様々だが、とにかく「陰謀論」が出来上がり、それが拡散し、非難の嵐が巻き起こる一連のムーブメントに異様なエネルギーが感じられた。ある対象に向けられた嫌悪にも近い拒絶は、ある種のルサンチマンと言えるかもしれない。

ただ、ここでは当の「陰謀論」そのものの内容を紐解き真偽を問うのではなく、世の中に溢れる情報の「受け取られ方」について論じたい。具体的には、情報の受け取り方により何が起こるのか。そして各人が情報を精査し、自分なりの判断基準を持つためにはどうすればいいのか、さらに安易に善と悪、真実と虚偽、強者と弱者を決めつけないために必要なものとは何なのか、これを論点としたい。

たとえば、大震災に起因する原発事故があったとして、その発電所を管理・運営している組織が大いに叩かれたとする。そもそもなぜ原子力発電所というものがあるのか、某電力会社はどういう組織なのか、どういう政治的な思惑があるのか、その背景を知る人間からすれば「あの会社がダメなことは今はじまったことじゃない」といったところからスタートするが、事件をきっかけにその対象のネガティブな側面を見た人は、あたかも自分が悪者を見つけたかのような反応を見せる。某電力会社の杜撰な対応、政治家の曖昧な発言を見て、隠されてきた悪、陰謀に変換する。

確かに、杜撰だったり曖昧だったりすれば、不信感が芽生えるのも当然だ。ただ、とはいっても、原発事故の後だけしか見ていないからこういう話になるのであって、「今はじまったことではない」という感覚、そう言える根拠があれば、少なくとも何かを隠している、嘘をついているという疑いからは入らないだろう。つまり、これは前からそうで、あれは後から判明したことというように要素分解ができるということだ。

もちろん、中にはお前は本当にそれでもプロかというような知識不足の社員もいるかもしれないが、原則的に(私が知っている限るにおいては少なくとも)、新聞、出版、テレビなどの業界に身を置き何らかのアウトプットをしている人は、一般消費者(ここでは、シンプルに情報の受信側とする)と比較して圧倒的に知識量、現場感がある。では、正しい情報を報道していないと叩かれるのはなぜか。それは単純に、そもそも「報道ではないから」だ。あくまで、収益性を度外視できない民間企業であり、売れること、消費されることを前提とした情報を配信しているといっても過言ではないだろう。

違うビジネスに置き換えてみよう。「広告」も同様に、売ること、利用されることを前提としたコピー、ビジュアルをつくりこんだものである。ただ、広告の場合、消費者の視点で考えて、シズル感のある写真、感情を煽る文章などをそれほどネガティブにとらえることはないはずだ。「騙している」と。クライントと広告代理店、その他プロダクションによる「仕事」「ビジネス」なのに、“マスメディア”のような批判にさらされることはない。

さて、そうするとなぜ、マスコミはこうあるべきという「べき論」に巻き込まれるのか。「べき論」とはつまり、発せられる情報が「報道」としてとらえられることに起因する。そしてそれは、ある種の不安から生まれる。不安だから、「正しい情報」だけがほしい。それだけをひたすら吐き出してほしいと願う。ただ、どうだろうか。すべての消費者が自発的に情報を取り込もうとテレビをつけたり、新聞を読んだり、雑誌を開いたりするときに、そこには必ず正しい情報のみががあって、それのみを摂取するなどということが可能だろうか。

まず、マスメディアが流す情報はごく一部であり、時間や枠の都合上端折られているということは前提とするべきだろう。断片だけをエモーショナルに伝えることを「意図的に」しているという点では、嘘を伝えているという捉え方もできるかもしれないが、基本的に記者が取材した「事実」をそのまま流すということはない。編集され、テレビ向き、雑誌向きに発信される。新聞でさえ、取材内容をテープ起こししてそのまま掲載するわけではない。何らかの意思は込められている。もっといえば、ビジネスの領域において編集されずに世に出る情報などほとんどないに等しい。

そうすると、視聴者や読者、ユーザーを想定したものを“つくっている”のだから、そもそも「正しい情報」を要求するのはナンセンスということになる。フィクションやバラエティなど、はじめからその情報の確からしさが問われないものと原理的には同じだ。すべての受け手が正しいと判断できるような情報を提供する義務や、それを可能とする能力を有する存在ではない。善し悪しは別として、この前提というか構造は理解する必要があるだろう。

結局のところ、テレビのワイドショーや記事のソースが信頼に値するかなどは個人に委ねられている。Webには無数の情報が溢れていて、かつそれにスピーディにリーチすることができるが、同時に数多くのノイズの中からいかにして正しい情報を得ることができるのか試されているのだ。物事の背景や成り立ちを知らないと、どうしても断片的な情報により一義的な判断を下すことになってしまう。だから、判断する前にまずは立場を置き換えてみるといい。なぜ、そうなっているのか、そのように見えるのかを吟味する。多角的な視点で情報を収集し、精査し、その上で自分なりの意見や考え方を付与してみる。そうすれば、その道の専門家にはなれなくとも、ある程度まで対象を客体化し、自分の立場と相手の立場を俯瞰で眺めた上で判断することができる。

このように言うと情報発信側を擁護し、リテラシーの低い受信側を非難しているように見えるかもしれない。だが、私が言いたいのはあくまで、「安易に善と悪を相対化すべきではない」ということだ。もちろん、発信側に怠慢がないといったら嘘になるだろう。むしろ、そのある種の「怠惰」こそが受け手に不安や疑念を抱かせる要因となっている。だが裏を返せば、受け手が情報を精査せず陰謀論へと変換させることもまた「怠惰」なのだ。憎むべきは悪とされるものではなく、この怠惰であり、それはあっち側とこっち側に分かれる種類のものではない。

相対化するのではなく、ある対象を違うものに置き換える。そうすれば、一義的だったものは違う彩りを見せるだろう。たとえ、その先に深い闇が広がっているのだとしても。
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