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Author:青木勇気
小説を出していたり絵本も書きたかったりします。物書きと呼ぶにはおこがましいくらいのものですが、物語を書いて生きていけたら幸せだなと思っています。

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「最後の手の建築家」伊丹潤氏を偲んで

2012.05.13 18:49|雑記

私にとってドローイングは、確実な形態をふまえているとは思えないが、建築のある一断面やもののフォルムをつかまえるための生々しい営為であり、矛盾に充ちた線の集合体といえる。またそれ自身、建築の原初体験でもあり、建築への仕組みの連続でもある。


※『ITAMI 建築と絵画』(求龍堂):「私のドローイング」より引用

自らを「最後の手の建築家」と呼ぶのは、伊達ではない。無骨で力強いタッチで描かれ生命力を帯びたスケッチ、ドローイングは、いわゆる設計図と言われるものの概念から大きく逸脱している。それはまるで、木、水、土、石などの自然素材が持つ美しさと機能性なくして、空間を切り出し建築物として具現化することはできないと主張するかのようだ。そして、この手描きへのこだわりこそが、建築家であり芸術家でもある「伊丹潤」を希有な存在足らしめている。

伊丹潤は、「誰もが知っている」という種類の建築家ではない。晩年には村野藤吾賞の他、仏芸術文化勲章を受章するなど世界的に評価されながらも、作品の根底にはどこか流行廃りとは無縁の厳かで重厚な空気が流れていた。そして、彼自身もまた孤高という言葉の似合う雰囲気を漂わせていた。隠しきれない内なる温もりを巧みに隠しながら。

現在開催中の「伊丹潤展 手の痕跡」では、そのことを再認識したように思う。「手の痕跡」というコンセプト、空間演出ともに、伊丹の意志、人となりがよく反映された展示だった。

ここから先は、個人的な話をしたい。というのも、今回展示を観にいくことは、追悼であり、回顧だったからだ。私にとって伊丹氏は、単にお気に入りの建築家という存在ではなく、直接的にも間接的にも大変お世話になった恩人でもある。

ちょうど10年前、私は建築の道を志す親友と韓国の済州島を訪れている。目的は、伊丹氏による一連のプロジェクトの一つ、ゴルフクラブに併設された「PODO HOTEL(ポド ホテル)」だった。リゾート地で優雅にラウンドする必然性のない大学生は招かれざる客だったが、伊丹氏の名前を告げ見学したい旨を伝えたところ、スタッフの方は快く承諾してくれた。

伊丹氏の作品は多数見てきたが、「PODO HOTEL」はとにかく衝撃的だった。そこには、これは間違いなく伊丹潤にしか生み出せないものだという実感、そして、この人の作品は最新作が最高傑作になるのだという予感があった。帰国後、私は興奮覚めやらぬまま評論まがいのものを書いた。今思えば、面識があったとはいえ無謀かつ傲慢な行為だったが、伊丹氏は何の実績もない私を評価し、韓国の建築雑誌に署名付きで載せてくれたのだ。(文末にて転載)

あるいは、このような個人的なことを書くのは適切ではないかもしれない。しかし、10年の歳月を経て、一級建築士となり事務所を構えるまでになった親友とともに「伊丹潤展 手の痕跡」に行き、改めてその作品に触れ、当時を振り返る中で、何らかの形で恩返しをしなければならないと強く思ったのである。

少しでも興味を惹かれた方は、ぜひ「伊丹潤展 手の痕跡」に足を運んでみてほしい。そして、もし韓国に行く予定があれば、済州島まで足を伸ばしていただければと思う。留保なく、伊丹氏の作品の力強さと温もりと、そこに「ある」ことの意味を感じられるはずだ。

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平屋造りの“葡萄” ~対話のある情景~

葡萄を象った「PODO HOTEL」、それは平屋であった。ホテルとは辞書的な意味においては西洋風宿泊施設であり、正確にはこの“葡萄”はホテルとは言えない。しかし、そこにこそ平屋であることの逆説的な意義が表れてくるのである。

この一房の“葡萄”の中心部には光を取り入れ、水を配給する核の部分があり、光は「内」に注ぎ込まれ、水は「外」へと注がれる。この「内と外」は建物の内側とそれ以外という機械的な区分ではない。その相互性は、その土地の土壌と“葡萄”との共生の具現であり、幹から切り落とされた不特定の房ではなく豊かに膨らみ実を結んだ房であることを示唆する。

また、枝分かれした先には幾十かの果実である客室及び突き抜けていく視点が散りばめられているが、そこには必然的な景色があり、素材がある。そこにはただ土があり、石があり、緑があり、空気の混じり合いがある。このような情景は無作為であり「対話」として捉えうるであろう。伊丹氏はこのような「無作為の作為=建築」を自然の中に融合させる表現能力を有すると言える。

このようにして“葡萄”は、ホテルと呼ばれることと矛盾する形態を取りながら閉塞から脱却し、寝泊りのみの空間ではない多義的な単位としての位置を確立する。また、このことは「ビルディング=縦に積まれたもの」というホテルの既成概念を覆すことをも示しうるであろう。無論、この「PODO HOTEL」は個人の住まい、別荘にはなりえないが、ゲストハウスの原型であるところのものを利用者に大いに与えるのである。

つまりそれは、そこに足をつけ、滞在するという純粋な行為であり、潜在的な「ゲスト」の感覚であり、個々人が後天的に身にまとった利用者としての空間認識といったものである。ここに、平屋であることのそして平屋にしか成しえない意義があり、ホテルをゲストハウス足らしめる伊丹氏の豊かな感性が息衝いている。そしてそれは、ひとつの建築物が“葡萄”をメタファーとして実を結び、対話的な空間へと移行してゆく情景を描き出すのである。

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※韓国『INTERIORS』 2002.5 P147に掲載された文章の原文です

※言論プラットフォーム「アゴラ」に掲載された記事を転載しています

コンテンツの「使い捨て」は時代遅れである

2012.05.05 09:24|雑記
先日のエントリーでは、「匿名のコメント欄」が都合良く使われることでアンフェアな空間になると論じたが、この「都合」はユーザー側にとっての話だけではない。サイト側にとっても言えることであり、都合を優先してコンテンツを育てることを怠っているように思えるものが多い。

本稿では、ネット上でコンテンツが使い捨てにされている現状と、これからのコンテンツのあり方について考察したい。
 
あるWebサイトがTwitterやFacebookと連動していれば、そこにある情報は拡散・共有しやすく、コメントもしやすい。当然ながら、サイト運営側としてもページビューを上げるためにソーシャルプラグインを導入し、UIを設計する。これ自体はトレンドで、むしろそうでないサイトは時代遅れとさえ言える。

また、従来のような「ストック型」コンテンツよりも、「フロー型」のUGCの方が短い期間で盛り上げる必要があるため、炎上マーケティングを取り入れざるをえず、その一環としてコメント欄を有効活用するのは常套手段となる。言うまでもなく、「匿名」であればこの手段はより活きる。

某サイトで筆者が経験した例に挙げよう。ある匿名の人がひとつめのコメントで記事を小馬鹿にしたものや徹底的に批判した文章を書くと、アジテーションに乗っかった人たちによってその論調がヒートアップする。そうすると、論調から外れた意見を書きにくい空気が出来上がる。

実際に、意見が合わないと読み手同士のやりとりは罵り合いや揚げ足取りに終始することが多い。また、罵詈雑言の類いを書き散らしている人に書き手本人が返信をすると、大抵の場合はトーンダウンするか、無視するかである(匿名だからと開き直って批判が加速することもあるが)。

もちろん、必ずしもこのような状況になるわけではないし、匿名アカウントであっても建設的な意見や反論を寄せる人はいるが、自由かつ公正な意見交換による議論が求められているようには到底思えない。

なぜなら、ほとんどの場合、書き手に不明な点について質問をしたり、事実誤認を具体的に指摘したり、自分の主張を提示しつつ改めて意見を聞くなど、議論をするにあたっての最低限のマナーが守られていないからだ。それが故に、多様な視点、考え方を提供する空間であり、その善し悪しを決めるサイトではないのにもかかわらず、「議論する場」ではなく「評価する場」になってしまっているのである。

炎上しないコメント欄は、馴れ合いのサロンのようでつまらないという見方もあるだろうし、盛り上がりに欠けるかもしれない。コメント欄が荒れるほど記事への注目度やPVが上がるため外せないというのもわかる。ただ、確実にそこにあるコンテンツの価値は貶められる。もっといえば、コンテンツを「使い捨てる」ことになる。

建設的な議論をしようとしない匿名のアカウントが一定数集まり、人を不快にさせる言葉が溢れる2ちゃんねる化した場には、書き手も読み手も進んで近づこうとしないし、結果的にすべての人が書きっ放しになってしまう。書き手にここで何かを書きたい、この人たちと議論したいというモチベーションが湧かなくなればコンテンツの質は上がらないし、サイト側や読み手に書き手を支援し、育てる気がなければ、そこから離れていって当然だろう。多くの人に見られるという以外にメリットのないサイトでは、コンテンツはただ消費されるだけだからだ。

たとえば、アゴラのように灰汁の強い論客陣が思い思いに書いている投稿型サイトも、非常に炎上しやすいと言える。ただ、それでも議論できる場にはなっている。Facebookアカウントで、つまりは実名(一部なりすましもあるが)でコメントするようになっているからだ。

Facebookのアカウントがないと書き込めないから不便、ユーザビリティが低い、コメントのハードルが高く盛り上がらず閉鎖的という見方もあるとは思う。ただ、議論の妨げとなる誹謗中傷、邪推などのノイズは圧倒的に少なく、書き手と読み手の間に対等な関係が保たれる構造になっている。
 
Facebookのアカウントからのコメントは、信頼性が高いだけでなく、その人の専門領域やバックグラウンド(なりすまし含め)が分かるため興味深い。また、記事に対する質問、反論、事実誤認の指摘などの精度も高いため、書き手としては手応えを感じることができ、学びもある。結果的に、そこでさらに別の視点が加えられ、場合によっては加筆・修正を加えたり、シリーズ化することもある。読み手としても、インタラクティブなコメント欄であることを感じられるはずだ。

つまり、実名で書かれた記事へのリアクションとして、ある程度自分の立場を明かした上でコメントをする、それに対し書き手がコメントをする、そしてそれをまた別の人が…というように有機的な空間となる。これは、先日のエントリーのコメント欄を見ていただければ一目瞭然だ。

そろそろまとめに入ろう。結局のところ、ネットだろうがなんだろうが匿名性を隠れ蓑にして人格否定や誹謗中傷が行われるのはおかしい、匿名を選択できるのは当然の権利、サイト運営上必然といった議論にすり替えて開き直ることこそがアンフェアだ、Facebookのアカウントであれば社会性が保たれるため議論の形を取らないノイズは発生しにくい、というごく当たり前の話であり、本来くどくどと書くまでもないことなのだ。

ただ、一見すると自由で公正さがあるシステムが呪いの言葉を呼び込み、逆に抑止力が働き不便で閉鎖的に見えるシステムが、まともな議論を生み出すということが現に起きていて、このことはコンテンツをどう扱うべきかを考えるきっかけを与えてくれる。

まずサイト運営者は、ユーザー参加型のサイトを自由でソーシャルな場などと安易に定義するのではなく、建設的な議論を行える場に必要なものは何か、どういうサイトにするためにコンテンツがあるのか、参加者のモチベーションを高めコンテンツの質を保つにはどうすればいいか、どうやって発信者を増やしていくかなど、グランドデザインを描く必要があるのではないだろうか。

そして参加者は、個人としてそこにどういう立ち位置で関わるか、どのようなマナーが必要かを考えるべきではないだろうか。いずれにせよ、発信者をモチベートし、支援し、共にコンテンツをつくりあげていくという感覚がなく、サイト管理者、書き手、読み手という構造の中で有限のコンテンツを消費するタイプのものは廃れていくだろうと思う。

今やソーシャルメディアは、クラウドファンディングなどにより「寄付/共同購入文化」を浸透させつつあり、「賛同、共感、支援」といった贈与の精神によって人が動き、新しいコンテンツ、サービス、社会貢献活動を生み出している。

これからは、発信者に共感し、支援し、共につくり、収穫し、場合によっては自らも発信者となる、こういうあり方が主流になるだろうと思う。そんな中で「反対、否定、批判」を原動力にして、一時的に爽快感や炎上を生み出す方法を採用し続ければ、必然的にこの流れに逆行することになる。

「匿名のコメント欄」が都合良く使われること、つまりはコンテンツの「使い捨て」は時代遅れなのである。

※言論プラットフォーム「アゴラ」に掲載された記事を転載しています

なぜ、「匿名のコメント欄」はアンフェアなのか

2012.05.02 19:29|雑記
そういうものなのだろうし、どうしようもないことかもしれないが、それでもやはり納得がいかないので書きたいと思う。テーマは、ネットにおける匿名のコメント欄についてである。

ポイントは、アンフェアなのにもかかわらず、自由や公正という言葉でその存在意義が語られること。本稿では、特定の記事に対して「意見」として匿名で好き勝手にコメントできることがいかにアンフェアであるかを論じたい。

まず、匿名性のメリット、必要性について「プライバシーを守るため」「匿名だからこそ言えることがある」などと言われるが、これこそが疑わしい。むしろ、実名だからこそ言えないことがあってしかりなのであり、守られるべきなのはプライバシーを晒している人だからだ。しかし実際は、著名人や政治家、学者、ブロガーなどの発信者への誹謗中傷の類いは公然と、ごく気軽に行われている。まるで、「実名で何かを発信するということは叩かれることなんだ。叩かれるのはレベルが低い証拠」と言わんばかりに。

そもそも、記事やブログのコメント欄でプライバシーを守り、匿名だからこそ言える何かを担保する必要があるのだろうか。言論の自由だとか、コメント欄があることでインタラクティブになり議論の公正さが保たれるといったことは、匿名であることの理由にはならない。匿名の人間による情報発信は信頼性が低い、だから発信者(書き手)は実名の方が良い。実名でわざといい加減なものを書いて、自らの評価を落とすことはしないだろうから。それに、実名だとその人がどんな仕事をしているか、どんな価値観で書いているのかなどが見えやすく、それが安心感や信頼につながる。この話はわかる。

しかし、一方で匿名の人間によるコメントはどう捉えられているか。信頼性がなく、聞く耳を持つ必要はないものだとすると、意見としては成立しなくなり、コメント欄の存在意義はなくなるわけだが、それでも匿名性によって「自由」や「公正」が保たれている。では、なぜこのような匿名性が守られているのだろうか。それは、「都合が良いから」である。つまり、ここでプライバシーと呼ばれるものはあくまで「隠れ蓑」であり、倫理や道徳、自由などとは関係なく、匿名性が守られることによって「コメントしやすくなる」というだけの話だ。

サイト側と書き手の間には需要と供給がある。原稿料という金銭的なメリットがなくとも、書き手には元々モチベーションや問題意識があるし、サイトコンセプトや他の論客に共感でき、一定数の読者を集めてもらえるのならそれで構わない。サイト側は、無料でコンテンツを手に入れられるわけだから、願ったり叶ったりである。この仕組みが成り立てば、読者を集めて広告収入を期待するサイト側と記事を読みたいユーザーの需要と供給も成立する。しかし、果たして読み手と書き手の間には需要と供給が成立しているのだろうか。

ここに、アンフェアな一面がある。あるユーザーが、コメント欄に匿名で誹謗中傷や人格否定としか言いようのないコメントを書くとき、書き手は確実に割を食うことになる。レッテルを貼られたり、まことしやかにデマを流されたりすれば、「匿名のおかしな人たちが言ってることだから」という人がほとんどでも、多少なりとも実害を被るリスクがある。

書き手は、個人情報を晒した上で私はこう思うという姿勢で書いているが、読者には隠れ蓑が用意されている。明らかに、需要と供給が成立していない。いや、成立しないどころか、無料かつ無報酬で提供されるコンテンツに対し、もっと質の高いもの、面白いものをよこせと過剰に要求するなど、誠意や敬意に欠けた発言が後を絶たない。

これがどういう状況なのか考えてほしい。たとえば、ある人が被災地での瓦礫処理のボランティアに参加した際、通りがかった人から「お前、なんだその運び方は?なめてんのか。まともに瓦礫持ち上げることもできないならならやめちまえよ」「どうせ金もらってPR活動してるんだろ?」などと言われたら、どう思うだろうか。

確かに、個人が勝手にやっていることかもしれない。ただ、だからといって、何かできることはないかと懸命に取り組む人に対し、そのような言葉を浴びせていいわけではない。むしろ、不適切な発言だと良識を問われることになるのは自明だ。その意味では、面と向かって言える人はまずいないと言える。

同様に、社会人として仕事をしていて、同僚やお客さんに馬鹿だとかクズだとか罵声を浴びせて平気な顔をしている人がいないのは、そんなことをしたら相手を傷つけたり、怒られたり、売り上げに響いたり、社内外での自分の評価に関わるからである。つまり、そこに利害関係があることを十分に理解しているため、そんなことはしないし、できない。

しかし、ネット上では匿名の人物としてそれが「できる」。匿名を選択することで、何の仕事をしているか、どんな人物なのかという観点で、仕事ぶりや人となりを「評価される側」に回るのを避け、一方的に「評価する側」に回ることができるのだ。

皮肉なことに、書き手の意図を邪推して「お前は機会主義者だ」とレッテルを貼る人こそ、利害関係に関して非常に敏感で、明確に損得の計算ができる「機会主義者」なのである。そして、それが故に匿名であることを選択する。匿名のアカウントの場合、コメント欄で書いた内容に対し書き手や他の読者の反撃、批判にあったとしても、交換可能なネット上での記号の存在が脅かされるだけだから、実質的な損失がない。

つまり、「匿名のコメント欄」はインタラクティブな意見交換の場であると同時に、一方的に悪口を書き込める「都合の良いもの」として機能する。これは疑いようのない事実なのである。

参加するのも撤退するのも気楽なのが、匿名の魅力ではある。ただ、何を言っても許される構造になっている限りにおいて、匿名のコメント欄は徹底してアンフェアな存在だ。その存在意義に、自由や公正さを持ち出す余地はない。

※言論プラットフォーム「アゴラ」に掲載された記事を転載しています

永江一石さんの「マジマ大作戦」に乗っかってみた

2012.04.27 14:31|雑記
・目を酷使する現代人に朗報!“パソコン用サプリ”がついに誕生!

紹介するのは、パソコン用のサプリメント。その名も『PCサポート』。パソコン作業などで目を酷使している現代人の悩みを解消するためにサプリメントダイレクトが開発した商品だ。

目的に合わせて2タイプ、モニターでつらい人向けに『PCサポートi』、タイピングでつらい人向けに『PCサポートk』がある。「パソコン用のサプリ?」と眉をひそめながらも、効果が期待できるならば試してみたいと思う方が多いのではないだろうか。

―― というわけで、試してみた。

ことの発端は、永江一石氏のブログ記事「肩こりの人大募集!! ステマじゃなくて、マジマ大作戦やります」*1。ブログの愛読者であり、一日中パソコンやスマフォの画面の前にいて目・肩・腰に問題を抱えている筆者としては、「ソーシャル発信のマーケティングテスト」とうたわれた企画に乗っからない手はない。早速モニター募集に応募し、商品を発送していただいた。

*1:「肩こりの人大募集!! ステマじゃなくて、マジマ大作戦やります」2012年04月04日『More Access,More Fun! 永江一石のITマーケティング日記』

以下は『PCサポートi』『PCサポートk』を7日分(一日一錠)服用した感想である。

* * * * *

まず前提として筆者は腰痛持ちであり、肩こりがひどく、一日中パソコンモニターやスマフォを見ていて目を酷使している。さらに、この週は村上春樹著『1Q84』に没頭する関係で、普段以上に細かい文字を追うことが分かっていた。つまり『PCサポートi』『PCサポートk』ともに必要となることは自明だっため、同時に服用し普段と比較することにした。

【1~2日目】
心なしか肩こりが軽減された気がする。目の疲れに関しては、明らかに普段より軽減されたように感じた。

【3~4日目】
寝違えたため背中にかなりの痛みがあり、『PCサポートk』の効果を実感できず。ただ、目の周りが軽く感じた。

【5~6日目】
週末にフットサルをしたため筋肉痛があり、『PCサポートk』の効果はあまり実感できず。ただ、目の周りの気だるさはない。

【 7日目 】
1~2日目の感覚に戻ったような気がして、目が疲れにくくなっていることを実感した。

慢性的に目を酷使することは前提だが、平日と休日では全然違うため、平日のみにしたほうが効果を感じやすいかもしれない。いずれにせよ、劇的に変わるという種類の商品ではないので、ケースバイケースで効率的に服用してみたいと思った。“短期的にも効果を感じられるが、生活習慣に合わせる形で長期的に服用しながら効果を確かめるほうがよい商品”といったところだろうか。

また、効用・効能という部分以外では、大きめなので少し飲みにくいのと、粉が手に付きやすいのと、割れやすいのは改善すべきではないかと感じた。

いずれにせよ、どちらも30日分3980円(税込)で高くはないし、日常的に服用することでより強く効果を実感したいところではある。ただ「即購入!」とまではいかず、今まさに悩んでいる。というのが正直な感想だ。

これはあくまで筆者の個人的な感想でしかないので、商品の詳細に興味がある方はサプリダイレクトのサイトを、仕掛人・永江氏に興味がある方は永江氏のブログ『More Access,More Fun! 永江一石のITマーケティング日記』をチェックしてみてほしいと思う。

※この記事は“ステマ”ではなく“マジマ”です!

「サプリメントダイレクト」

『More Access,More Fun! 永江一石のITマーケティング日記』

※ニュース&ネットカルチャー「ガジェット通信」に掲載された記事を転載しています

就活生必見! 距離・時間・コストの壁を越える“Ustream会社説明会”とは?

2012.04.23 18:33|雑記
東日本大震災における活躍が記憶に新しい『Ustream(ユーストリーム)』*。ライブビデオストリーミングなどのプラットフォームを提供する動画共有サービスだ。視聴者とのチャット、視聴者からの投票などの機能があり、手軽に“生放送”ができるため、法人個人問わず積極的に利用されている。まだまだ成長過程ではあるものの、玉石混淆のソーシャルメディア業界において、様々なビジネス・サービスを生み出しうるポテンシャルの高いプラットフォームと言えるだろう。

*『Ustream』
http://www.ustream.tv/

今回は、筆者が注目するいくつかのサービスの中から、総合人材サービス企業であるソフトバンク・ヒューマンキャピタル(http://www.softbankhc.co.jp/)が運営する『就活ライブチャンネル』を紹介したい。サイトをご覧いただければ分かるが、このサービスのポイントは“地方学生・留学生のためのオンライン会社説明会”というところにある。つまり、学生に、いつでも、どこでも、オンラインで“会社説明会”に参加できるメリットを提供しているということだ。

たとえば、地方学生の就職活動においては、東京の本社に面接を受けにいくためにかかる往復の交通費(場合によっては宿泊費)、時間は馬鹿にならない。また、当然ながら情報格差もある。首都圏に比べると、就職フェア、会社説明会、各種セミナー、OB訪問などの仕入れ先が少ない。結果的に、選択肢を狭めることになってしまう。そんな状況がある中で、ソーシャルメディア(『Ustream』)を利用し時間と距離を埋めるソリューションとなるのが『就活ライブチャンネル』なのだ。

一方、企業側にもメリットがある。人気の企業であれば“集客”においては困らないし、大手企業であれば主要都市の支店・支社で現地採用することが可能である。しかし、知名度の低い中小企業や成長過程にあるベンチャー企業などは、その存在を知ってもらうことからはじめる必要があり、地方学生をターゲットにするのは物理的に難しい。だからこそ、『就活ライブチャンネル』を利用してオンラインで会社説明会を行い、ソーシャルストリーム上で学生とコミュニケーションを取り、サイト経由でエントリーしてもらうことに意味がある。

もちろん、“Ustream会社説明会”は『Twitter』や『Facebook』と同様にひとつのツールに過ぎないが、工夫次第で効率的な採用活動ができることを証明した例は少なくない。ある芸能プロダクションは、会社説明に加えて所属タレントを出演させたり、座談会形式で仕事におけるエピソードや社風、職場環境を社員に語らせることで視聴者の心をつかみ、相当数のエントリーを獲得したとのことだ。

■ 採用活動に直結させるだけでなく、仕事観や生き方の啓蒙も

また、『就活ライブチャンネル』では、就職活動に直結する会社説明会だけでなく、仕事観や人生観そのものを啓蒙するコンテンツも配信している。たとえば、田原総一朗氏、茂木健一郎氏、松田公太氏等、著名人や専門家を論客に迎えた対談番組、講演会など、なかには大学生をスタジオに招き、出演者に質問できるイベントもあり、人気をはくしている。

ほかにも、経団連による倫理憲章の見直しがあり、就職サイトのオープンも2か月後ろ倒しになった2013年度の就職活動支援として、業界を代表する企業の経営者、社員が登場し“業界の今”を語る『就活ライブチャンネル 業界研究』(http://live-channel.jp/study/index.html)というコーナーも設けた。漠然と知っている企業にエントリーするのではなく、まずは業界を知り、そこにどんな仕事があるかをイメージすることを問いかけることが狙いだ。

筆者自身、昨年大学三年生に取材する機会があり、就職活動含めどんな日常を送っているのかを聞いたが、「どんな業界、会社、仕事があるかわからないため、何から始めるべきか知りたい」という声が多かった。また、ゼミやテスト、サークル、バイトなどで忙しくしていて、三回生の夏休みくらいまでは就職活動をしている学生はごく一部らしく、就職活動を始めるにあたって“業界研究コンテンツ”のようなものが用意されていると非常に助かるとも言っていた。学生にとって必要なのは、内定を獲得することを目的にしたノウハウだけではないのである。

サービスとして、デバイスやインターネット環境に依存する部分は否めず、ビジネスモデルや集客にも改善の余地はあるだろう。だが、時間と距離の問題を解決し、仕事観の育成を目指す“Ustream会社説明会”の存在意義は決して小さくない。今まさに就職活動中の学生の方、これまでとは違った方法で学生にアプローチしたい企業人事の方は、一度『就活ライブチャンネル』をチェックしてみてはいかかだろうか。

※ニュース&ネットカルチャー「ガジェット通信」に掲載された記事を転載しています